メニュー

院長の生い立ち

学生時代

小中学校時代はとにかく運動が大好きで、バスケ部ではキャプテンをしていました。

コーチの「自分の限界を決めずに頑張れ!」という指導のもと、チーム全員刈り上げ(笑)ショートカットで一丸となり、全国大会目指しバスケ中心の生活を送り、準決勝で1点差で敗退し夢は叶わなかったものの、目標に向かって地道に努力すること、忍耐や協調性、チームワークを学べたと思います。

その頃に身内の眼科疾患を治したいと医師を目指し、猛勉強して三国ヶ丘高校から熊本大学医学部に入学しました。

大学時代は、家庭教師だけでなく飲食店や洋服屋店員などのアルバイトをして、ヨーロッパやアジアを中心にバックパッカーで世界各国に出かけるのが楽しみでした。

初期研修医、外科専攻医時代

大学卒業後は故郷の大阪に戻り、初期研修は市立豊中病院で行いました。

当初は眼科医を志望していましたが、おっちゃん外科医達が、「病気は薬じゃなくて、俺の手で治すんや」と、夜中、休日に関わらず、緊急手術で救命している姿に感銘を受け、体力には自信があったので外科の道を選びました。外科専攻医の4年間は、ほぼ病院に寝泊まりの生活でしたが、乳がんだけでなく緊急手術も含め消化器外科の手術を多く経験させてもらいました。

当時、消化器癌の患者さんが亡くなられた後、その旦那さんが「喪主の挨拶で僕は、最高の主治医に出会えたと話しました」と伝えにきてくれました。若い外科医でも、一生懸命治療すると患者さんは信用してくれるんだなと、その優しい言葉は長く励みになりました。

素晴らしい指導医と、切磋琢磨しあう同僚に恵まれ、自分の外科医としての基礎はこの豊中病院時代に教われたと思います。

その中で、手術に加え、多数の効果的な薬物治療が行うことができ、同じ女性として寄り添える乳がんを専門分野とすることにしました。

乳腺専門医時代〜開業まで

卒後7年目に大阪大学乳腺外科に入局し、大学病院では医員として勤務し、大学院では前教授の野口眞三郎先生、現教授の島津研三先生の指導のもと、4年間研究を行い医学博士を取得しました。

その後、大阪大学の関連病院の中でも手術件数の多い大阪労災病院、八尾市立病院で、乳がんの診断、手術、薬物治療、転移再発や緩和治療、救急医療も行いながら、大多数の患者さんの治療を行ってきました。上司、同僚、スタッフにも恵まれ、乳がんについて多くを学べたと思います。

これまでの豊富な治療経験を活かして、生まれ故郷の堺の乳腺診療に貢献したいと思い、乳がん診療に必要なエコーやマンモグラフィだけでなく、MRIやCTまで撮影できる環境のメディカルスクエア初芝駅前で2025年に開業することにしました。

地域の皆さんをサポートできるよう、全力で頑張りますのでよろしくお願いいたします。

HOME

▲ ページのトップに戻る

Close

HOME